大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所 昭和34年(ネ)179号 判決 1961年1月16日

控訴人 藤東栄一

被控訴人 藤東コヨシ

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

本件につき昭和三四年九月七日当裁判所がなした強制執行停止決定はこれを取消す。

前項に限り仮に執行することができる。

事実

(略)

理由

控訴人と被控訴人とが、大正六年九月一八日婚姻し、昭和二三年八月頃から別居生活に入つたこと、被控訴人が控訴人を相手方として昭和二五年中広島家庭裁判所三次支部に別居並びに扶養料請求の調停申立をなし、右事件(同庁昭和二五年家(イ)第一三号事件)において、同年六月一九日控訴人は被控訴人に対し生活費として同年六月以降毎月二五日限り金六、〇〇〇円づつを支払う旨の調停が成立したこと、控訴人が右調停に基づき被控訴人に対し、昭和二五年六月分から同年一〇月分までの計金三〇、〇〇〇円及び昭和二九年一月分より昭和三一年九月分までの計金一九八、〇〇〇円の扶養料を支払つたけれど、昭和二五年一一月分から昭和二八年一二月分までの三八カ月分金二二八、〇〇〇円及び昭和三一年一〇月分から昭和三二年八月分までの一一カ月分金六六、〇〇〇円合計金二九四、〇〇〇円の扶養料を支払わないこと、並びに被控訴人が昭和三二年八月二六日右調停調書の執行力ある正本に基づき右未払の扶養料金二九四、〇〇〇円の債権の執行として控訴人所有の有体動産の差押をしたことは、いずれも当事者間に争がない。控訴人は、前示昭和二五年一一月分から昭和二八年一二月分までの三八カ月分の扶養料金二二万八千円の債権は被控訴人において放棄したものである旨主張し、被控訴人は、右放棄の意思表示は心裡留保であつて民法第九三条但書により無効である或は控訴人の強迫に因るものであるからこれを取消す旨主張する。成立に争のない甲第二、第五、第六、第一八号証、原審証人玉野君子、小路コトヨ、入沢艶子、秋山清一郎、坂田正の各証言、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すれば、次の事実を認めることができる。

控訴人は若い時から品行が悪く女性関係で被控訴人との間もとかく円満を欠いていたが、昭和二三年八月頃被控訴人の許を去り訴外竹重スエコと同棲するに至つた。被控訴人は控訴人を相手方として昭和二四年一二月広島家庭裁判所三次支部に離婚並びに財産分与の調停申立をなし、その結果同月二七日本件当事者間に双方は将来夫婦同居の生活を維持し、円満に相協力する旨の調停が成立した。しかるに、控訴人は依然として被控訴人の許に復帰しなかつたので、被控訴人は再び控訴人を相手方として本件調停の申立をなし、昭和二五年六月一九日前記の如く控訴人は被控訴人に対し生活費として昭和二五年六月以降毎月金六、〇〇〇円づつを支払う旨の本件調停が成立した。被控訴人は一カ月金六、〇〇〇円の生活費では従前程度の生活を維持することができないので、同年八月頃より資金を借入れ木材商を始めた。控訴人は妻である被控訴人が右商売に失敗した場合その損害が自己に及ぶことを恐れて、被控訴人に対し右木材商を中止するように申入れたが、被控訴人がこれに応じなかつたので、同年一一月以降本件調停に基づく扶養料の支払を停止するに至つた。被控訴人は資本がないのに高利の借金をして木材商を始めたので、雇人の給料を払えば後に殆んど残らぬ位で思う様に利益も挙がらずまた健康を害するに至つたため、昭和二八年一二月頃右木材商を廃業した。間もなく翌昭和二十九年二月頃被控訴人は胆嚢症と不安神経症とを患い病床に臥すに至つた。そして、医師の診断を受け、また実弟である医師坂田正の指示に従つて注射などして療養に努めたが、病状はなかなか軽快に赴かず、翌昭和三〇年頃まで寝たり起きたりの日が続いた。一方、控訴人は酒造会社の社長をして相当裕福な生活を送りながら窮境にある妻たる被控訴人を顧みず本件調停を無視して約定の一カ月金六、〇〇〇円の扶養料を支払わないので、被控訴人は他に収入の途もなく、医療費や生活費の支弁に苦しんでいた。ところが昭和三〇年四月一日控訴人は突然被控訴人方を訪れ、被控訴人に金五四、〇〇〇円の現金を示して「従来未払の昭和二五年一一月分から昭和二八年一二月分までの扶養料金二二八、〇〇〇円の請求権を放棄する旨の書面を書けば、この金五四、〇〇〇円を支払つてやる。若し右の趣旨の書面を書かねばこの金五四、〇〇〇円も支払わないし、これからも本件調停による扶養料を支払わない。」旨を申向けて被控訴人を強迫し、前示金二二八、〇〇〇円の扶養料請求権を放棄せしめようとした。当時、被控訴人は前示の如く久しい間の病気で気も弱くなつており、また収入の途がなく生活費に困つていたので、若し控訴人の要求を拒否すれば控訴人から一文の扶養料の支払も受けることができずいよいよ生活が苦しくなると畏怖して、遂に控訴人の強要に屈し、右扶養料請求権を放棄する旨の意思表示をした。そして、被控訴人は控訴人の要求に従いその持参した原稿の文面に基づいて、「昭和二五年一一月より昭和二八年一二月末日まで三八カ月分(一カ月分扶養料金六千円也)は今回貴殿と申合せの上今後更に請求致しません後日の為め証一札相渡し置きます」と記載しこれに署名押印して、甲第二号証の書面を控訴人に交付し、これと引換に昭和二九年一月分以降九カ月分の扶養料として前示金五四、〇〇〇円を控訴人より受取つた。

以上の通り認めることができる。原審及び当審における控訴人本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠は存在しない。しからば、被控訴人のなした前示扶養料請求権放棄の意思表示は控訴人の強迫によりなされたものといわねばならぬ。そして、被控訴人は当審における昭和三五年三月二二日の口頭弁論期日に右強迫を理由として右放棄の意思表示を取消したのであるから、右放棄の意思表示はその効力を失つたものである。なお、前示認定の如く、被控訴人は本件調停成立後、昭和二五年八月頃から木材商を始め、昭和二八年一二月頃廃業するまで、控訴人から扶養料の支給を受けなくても右木材商の収益によりその生活を維持していたものであり、また成立に争のない甲第二〇号証の一、二、当審証人沖田忠信の証言によれば、被控訴人は昭和二十九年九月頃沖田忠信に対し金三〇万円を利息月四分の約で貸与した事実を認め得る。しかし、原審証人玉野君子、小路コトヨ、坂田正の各証言、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すれば、被控訴人前示認定の通り、他より資金を借受けて木材商を始めたのであるが、これによりようやくその生活を維持し得る程度の収益を得たのに止まること、被控訴人は、昭和二九年末木材商を廃業した際、資金として借入れていた金が手許に残つたので、これを高利で他人に貸与し、利鞘を稼いでこれを生活費の一部に充てていたものであるが、沖田に貸与した金員も右の如き趣旨の金であつて、被控訴人の生活に余裕があるため自己資金を沖田に貸与したものではないことを認めることができる。およそ夫婦は同居し互に協力し扶助すべきものであることは民法第七五二条に明定せられているところである。そして、夫婦間の扶養義務は、他の親族間における扶養義務とは異なり、夫婦の一方において他方の最低限度の生活を保障すれば足るという如きものではない。夫婦の一方は他方に対し自己と同じ程度の生活を保障すべき義務がある。本件当事者間における如く、すでに夫婦が別居しその婚姻生活が破綻に頻している場合においても、法律上の夫婦関係が存続している以上、夫たる控訴人は妻たる被控訴人に対し自己の妻たるにふさわしい程度の生活を保障すべき義務がある。勿論、夫婦間における扶養の程度及び方法については先ず夫婦間における協議により定められるものであり、本件当事者間には本件調停により右の程度及び方法が定められているのであるが、被控訴人が本件調停成立後木材商を営むことにより、本件調停所定の扶養料の支給を受けないで、その生活を維持し得たからと言つて、その間被控訴人が夫たる控訴人と著しく相違しない程度の生活を保持し得た事実が認められない以上、控訴人は被控訴人に対し本件調停所定の扶養料を支払うべき義務がある。それのみならず本件当事者間に本件調停が一旦成立した以上、その後に事情の変動を生じても、更に改めて扶養の程度及び方法につき本件当事者間に新たな協議が成立するか、或は民法第八八〇条による家庭裁判所の変更又は取消の審判のあるまでは、控訴人は被控訴人に対し本件調停所定の扶養料の支払義務を免れ得ないものである。従つて、控訴人が被控訴人に対し、昭和二五年一一月分から昭和二八年一二月分までの扶養料合計金二二八、〇〇〇円を支払うべき義務のあることは明らかである。次に、控訴人は昭和三一年一〇月分から昭和三二年八月分までの一一カ月分の扶養料金六六、〇〇〇円については、その主張の如き控訴人に対する債権と相殺する旨主張する。しかし、本件調停により控訴人が被控訴人に対し支払うべき義務のある一カ月金六、〇〇〇円の生活費は、扶養料であつて、民訴第六一八条第一項第一号にいわゆる法律上の養料に当るものであるから、その請求権は差押を禁ぜられている。従つて、民法第五一〇条により、控訴人主張の如き相殺の許されないことは明らかであるから、その他の点につき判断するまでもなく、控訴人の右主張は理由がない。

しからば、原判決はその結論において全部相当であつて、本件控訴は理由がないから、これを棄却すべきものである。

よつて、民訴第三八四条、第九五条、第八九条、第五四八条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 佐伯欽治 松本冬樹)

裁判長裁判官岡田建治は転任につき署名押印することができない。

(裁判官 佐伯欽治)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例